今回の記事では、源頼朝が建てたとされる御殿及びその時代の年譜、並びに御守殿稲荷神社に関わる文献などについて論証したいと思います。
(御守殿稲荷神社から見た吉原の風景)
1 はじめに
今泉字御殿町に「御殿」が存在した事実を論証するため、地元に住む者として御殿に関する史実を調査しお伝えしています。
一般的に知れ渡っている背景については、前回記事にしていますが、文献史料を色々照らし合わせてみると疑問や矛盾が幾つか見付かります。
文献の事実だけを繋ぎ合わせて独自に論説する場合には、他の事実が出てくると独自見解に矛盾や間違いが生じます。
つまり、断片的史実だけで推察し曖昧なストーリーを組立てるのではなく、しっかりした論証をしたうえで「事実そのまんま」後世に伝承することが重要です。
私は、高齢者からの口証も重視しています。地元に暮らし土地勘を持つ人の口伝は、たとえ多少の錯誤や矛盾があったにしても、調査者自らが足を運んで聞き取り、調査した事実こそが大切な著作権益だからです。
その場所に足を運び、直接五感に触れてこそ権益(熱量)になります。一度も行った事がない場所を論説しても論証にはならないと私は考えます。
その為、御殿が存在した事実が400年もの間蔑ろになって来たのは、誰かにお願いするのではなく、地元に暮らす者こそが取り組む役割や課題であったと考えています。
郷土愛とは言っても、生まれ育った土地に対する熱量にも違いがあると考えています。
(御守殿稲荷神社の参道:公会堂前)
2 源頼朝が建てたとされる御殿
(1) 伝承内容
地元史料をまとめると、老人からの伝承として
〇治承4年(1180年)、源頼朝が平維盛と戦かった富士川の源平合戦の時、源氏の武将が稲荷神社を本陣として勝利した。
〇建久4年(1193年)、頼朝公は、富士の巻き狩りや御上洛の時の御殿を此処に建てた。
〇頼朝公がこの地を御殿に定めた時、ここ稲荷神社を御崇敬されて本社造営の御寄附をくださり、御殿を守り崇める意味から「御守殿稲荷神社」と名付けた.
と伝わっています。
(2) 文献史料
(注:文語調は口語調で記載する。)
①富士郡今泉村「神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進(きょうしん)に関する上申書」
明治39年9月19日
富士郡今泉村長 井出源策
勅令第96号(内務省令第20号)に依る上申
(村社 稲荷神社についての記述)
当社は今泉村今泉字瀬古に鎮座し、その氏子の住居地を御殿区と云います。
老人の言い伝えでは、治承4年(1180年)に頼朝公が平維盛と戦かった時と、建久4年(1193年)の富士の巻き狩りの時、及び御上洛の時等の御殿址である。
頼朝公がこの地を御殿に定めた時、ここ稲荷神社を御崇敬されて本社造営の御寄附をくださり、御殿を守り崇める為に御守殿稲荷と名付けたと云われている。
神社が鎮座している所を瀬古と云うのは、頼朝公が富士の巻き狩りの時に住民が猟に借り出された世古(勢子)の名からきている。
又、徳川3代将軍家光公の弟 駿河大納言忠長公が狩猟を楽しむ時の御茶屋御殿があった と云われている。
次の言い伝えについて説明します。
世古は、狩猟の時に鳥獣を追い廻す狩り子の名です。今泉村を昔、善徳寺村と云っていました。前述のとおり、今泉村大字今泉を称して世古村と云うが、寛文年中から今泉村に改称して、世古の名はこの神社地の辺りの小字に残っている。その他、世古の名が残っているのは狩屋世古が有るだけ。今はその狩屋世古を鍛冶屋(かじや)世古(せこ)と書き、この世古の地名は初代将軍頼朝公が狩猟の時に称した事からも、当社の事歴を明(あきらか)に知ることができる。
又 当神社は、呼子坂の南西方 約1丁余りの高台の壮厳な場所に有り、この呼子坂は、今日の原田村と今泉村との境にある。源平合戦の当時、源軍の将校がこの坂に於(おい)て呼子笛を吹き兵を集めた所からこの名称があり、又当時、梶原源太景季が陣営を張ったと云われる所があって、そこを今、源太坂と云っている。この源太坂は、今泉村と伝法村との境にある。
御守殿の事は神社明細帳の棟札の冩(うつ)しの項に明(あきらか)になっていて、頼朝公が御造営の寄附をされた本殿は、明治13年12月22日、今泉村今泉の大火災で類焼し跡形もなくなってしまった。
※注釈【御神体は、頼朝時代からあったものと考えられる】
尚、今より去る60年以前(注:江戸後期)、この神社付近の土地を開墾している時に、銀製長柄の銚子を発掘し、これを時の領主水野出羽守に献上したところ、同領主から賞状を賜わって、それを社殿に納めて置いたが、前にも述べた火災で社殿と共に焼失してしまった。それによっても、正に御殿趾が想像できる。
尚、世古については、今に至るまで祭典用提燈(ちょうちん)に世古の印字が用いられている。
以上の様に、武門武将の御崇敬があって御造営された神社で、境内の風致や建物等が完備されており、相応の氏子を有して維持する方法も確立して、一見して村社の体面を具備している。(以下、省略する。)
②富士郡神社銘鑑 第壱輯(しゅう)
(村社 稲荷神社の由緒)
創建年代不詳。富士川を挟んで源平両氏相(あい)戦いし時、其の将 當社(とうしゃ)を本陣とし大いに神恩(しんおん)を蒙(こうむ)るを得たり。故(ゆえ)に御守殿の称(しょう)あり(「称」は旧字体を使用)明治8年2月18日 村社に列(れっ)せらる。
明治40年 神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
③静岡県神社庁 富士支部神社名鑑
(御守殿稲荷神社の由緒)
往古は今泉村田宿の氏神であったが、湿地であったため住民が寛永2年(1625年)現在地に移住し、その時同時に遷座された。
※寛永2年(1625年)は、宝永2年(1705年)の誤りではないか?
明治8年村社に列格
同13年大火により焼失した。
明治40年神饌幣帛料供進神社に指定。
④昭和初期の「富士郡神社銘鑑」には、
由緒創建年代不詳
富士川を挟んで源平両氏相(あい)戦いし時 其の将 当社を本陣とし大いに神恩を蒙(こうむ)るを得たり故(ゆえ)に御守殿の称(しょう)あり。
⑤御殿町 御守殿稲荷神社由来記
(以前、町内で作成した小冊子:由緒)
当社の創建年代は不詳ですが、今泉村の神社関係の記録として残されている「神饌幣帛料供進の件に関する上申書」や富士郡神社銘鑑第一輯(昭和4年)などの資料によりますと、治承4年(1180)の富士川の合戦と建久4年(1193)の富士の巻き狩りのときには、頼朝公がこの地に御殿を建てました。
そして、そこに祀られていた神社に本殿造営費を賜わり、御殿の守護神として崇(あが)められましたので、当社は御守殿と呼ばれるようになったと伝えられています。
当社のある今泉は、昔は勢子村と呼ばれていました。それは、富士の巻き狩りのときに、多くの村民たちが、鳥獣を追い立てる勢子の役の列卒に応じたためであるといわれています。その後、善徳寺村にかわり、寛文年中(1661~72)には今泉村に変りましたが、当社の鎮座地だけにはその名が残り、近辺には狩屋勢子(現在名鍛冶屋瀬古)という地名も残っています。
明治13年12月の火災で焼失した神社明細帳の棟札写しの箇所に、頼朝公より御造営の寄附賜わるとの記録があったとも記されています。
その後、徳川3第将軍家光公の弟、駿河大納言忠長卿御遊猟のときに、御茶屋御殿がこの地に建てられたという口碑が伝えられていると記されています。(以下、省略する)
(御守殿稲荷神社の社殿)
3 頼朝時代の年譜
〇治承4年(1180):平安末期
源平富士川の戦い
※平家越、呼子坂、源太坂の旧跡あり。
〇建久4年(1193)5月:鎌倉初期
頼朝の富士の巻き狩
※この時、頼朝がこの辺り(御殿地区)に御殿を建てた伝承が記録で伝わっている。
〇建仁3年(1203)
頼家の富士の巻き狩
4 おわりに
以上の様に、明治期の今泉村の村長が内務省宛に上申した公の文章にも、御殿の存在について明確に記されています。
参考にしていただけたら幸いです。
今回は、ここまでのご報告とさせて頂きます。
次回は、戦国時代から徳川家康が御殿を建てるまでの経緯について、文献などを参考に検証したいと思います。
古民家ギャラリー懐古庵では、御殿に関する史料を纏(まと)めてありますので、興味のある方はご連絡下さい。
(追記)
富士市今泉は、源頼朝が「富士の巻狩り」を行った時、村人が勢子役を勤めて以来、瀬古(瀬子)村と言われる様になった とのことである。
そして、善得寺が滅びた後、
〇慶長4年(1599)~慶長9年(1604)の間で、瀬古村から善得(徳)寺村に改称され、
更にまた、
〇寛文2年(1662)善得寺村から今泉村に改称された
とのことである。
※富士市立中央図書館所蔵「今泉村誌」より
古民家ギャラリー懐古庵
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