【論理は人(相手)を追い詰める】(ロジハラ思考)
〝 斯(か)くあっては為らない。〟
1 はじめに
今回のテーマは、今 私が一番伝えたい事です。
今までのブログの中で
【論理は人(相手)を追い詰める】
(ロジハラ思考)
については、特に重要な事ではあるので何度も記事にしてきました。
2 ロジハラ思考について
もう2年半も経ちますが、
2022年4月4日、「北側庭の配置換えと名句碑」
という記事をブログで公開しています。
現在、少し配置換えしてありますが、北側の庭に「3つの名句碑」が配置されています。
〇清浄心
汚れのない信念、きれいな心には
不可能を可能にする力がある。
南無観世音菩薩
〇まるまると まるめまるめよ わがこころ
まんまるまるく まるくまんまる
木喰上人
〇よもすがら ほとけの道を
たずぬれば わが心にぞ
たずねいりぬる
一休禅師
私は、これら高僧の教えを仏教的な生き方を鋭く説いた言霊(ことだま)として石碑に刻み、ブログでは、その解釈を全く違う視点から「気づき」として展開してきました。
※以下、以前のブログ記事を引用。
(1)論理的思考が人を追い詰める
人は、ついつい良かれと思い、何事も「論理」で片付けようとします。
「利他の精神」を重んじ、徒労(とろう)を惜しまず歩んで来た私には、
・人の為など馬鹿らしい
・どうせ誰かがやってくれる
・効率的にやらなきゃ損だ
等と云う考え方には、どうしても抵抗を覚えます。
そこには「都合の良い悪し」と云う論理の履き違えを感じるからです。
多くの人が四六時中、効率を考えて頭脳を休めず、論理的思考に偏ってはいないでしょうか?
そして、自分の論理だけが正論だと勘違いしてはいないでしょうか?
・~べきである。
・誰々とは合わない、好きでない。
・何故?、どうして?
等々
知らぬ間に論理(正論)で他人(ひと)を追い詰めています。
そして、自分だけの欲求に拘(こだわ)り行き過ぎれば、論理で自分をも見失う事があります。
行き過ぎたロジカル(論理的・正論)は「ロジハラ」になります。
※「ロジハラ」とは、ロジカルハラスメントの略で「論理や正論で相手を追い詰める行為」を云います。
「何でも間違いを許せない気持ち」への拘りが、心のゆとり・精神の余裕・遊び心と云った寛大さを見失ってしまいます。
正に「寛大さ」こそが大事です。
四六時中、論理に拘(こだわ)ると、相手を思い遣る気持ちを忘れ「落とし穴」にも気付きません。
例えば、
〇余分な事を言って相手を傷つけてしまう事がある。
〇相手の気持ちにならず、嫌な事を尋ねたり話題にしたりして、無意識のうちにロジカルハラスメントをしてしまう事がある。
〇無意識に自分の立場で、最初から相手を見下している事がある。
〇直感で相手を好き嫌いに分けて態度を変えたりする。
〇直ぐに批判的思考に持って行き、相手のメンツを潰したりする。
〇気に入らない事があると、道徳を振りかざして攻撃したりする。
等々
ロジハラには様々な「落とし穴」があります。
お互いが言い争いになった時、論理的に躍起になって相手の言い分を聞き入れず、正論で相手を追い詰めても、お互いに幸せにはなりません。
(2)心のゆとり、精神の余裕、遊び心の大切さ
論理(正論)が全てだ とのロジカル思考は、自分自身にも向かってきます。
余分なことを考え過ぎて、
・挨拶が出来ない、人を見て挨拶する。
・他人と自分を比較してしまう。
・他人の視線が気になる、引きこもる。
・固定観念や思い込みで論理が出来上がってしまう。
・気に入らぬ人の花にさえ、綺麗とは思わない。
等々
その結果、自分さえも見失ってしまい、人間関係が維持出来なくなってしまいます。
それも又、自分自身に対する「ロジハラ」と言えるでしょう。
※心にゆとり(精神的余裕)が無いと、相手への寛大さ(思いやり)を失ってしまいます。
その結果、論理は人(相手)を追い詰めてしまい、争いや不安をエスカレーションさせてしまいます。
よって私は、論理(正論)的思考より「思いやり・優しさ」(武士道の情念)の方が大切だと考えています。
(3)或る出来事より
以前、ホームセンターのレジで間隔を空けて並んでいたところ、私の前にカートを引いた高齢女性が割り込んで来ました。
私は「あれっ?」と思いましたが、別に悪意も抱かず「譲ってあげよう」と思いそのまま並んでいました。
すると、その高齢女性が、ウッカリ割り込んだのに気付いたのか、わざわざ私の後ろに下がって並び出しました。
何となく私の顔色を覗って申し訳なさそうにしているので、私が
「良いですよ、前に並んで下さい。」
と明るく言うと、今度は安心したのか、ニコニコしながら
「こちらこそ、気付かずに済みませんでした。」
と答えてきました。
そんなに時、心にゆとり(精神的余裕)が無ければ、苛立ち(悪意)が沸き起こり「論理的思考」になって言い返したかも知れません。
当然、正論を持ち出して道徳を振りかざせば、高齢女性も怯えてしまうでしょう。
心のゆとり(精神的余裕)は、相手に対して寛大になります。
つまり、感情的な論理(正論)だけが全てではないのです。
そう言う意味では、日頃の精神的鍛錬とて必要なのかも知れません。
3 心のゆとり、真心と思いやり
ロジカル思考が悪い訳ではありません。
人間の生活に論理的思考は無くてはなりません。
ところが、正論だけで人(相手)を追い詰めるのには弊害があります。
気持ちに余裕がなければ不安がエスカレーションして相手に対する真心や思いやりが失われてしまいます。
それは、人間関係の他に国家関係にも言えることです。
「平和を乱す過ちの元凶」と云っても過言ではないと思います。
自分さえ良ければ相手の気持ち(感情)など、どうでも良くなってしまう。
ロジハラは、あらゆるトラブルの原因です。
4 認知療法「ABC理論」
人生が上手く行かないのは、ロジカル思考に原因がある場合が多くあります。
そうした過ちを犯さない為に、余分な事(論理・正論)を考えず、拘らず、「ABC理論」が大切だと考えます。
ABC理論については、以前にブログで紹介しています。
・A「当たり前の事を」
・B「バカになって」
・C「ちゃんとやる」
この生き方は、単純ですが凄く高尚な理論だと崇敬しています。
苛立ち(悪意)の感情を抱きつつ、いくら論理(正論)を並べても相手の心には響きません。
正論で相手を追い詰めても、お互いの幸せには成らないのです。
5 おわりに
若い頃の自分は、
「人生とは、人間性の秘密を探し求める旅路」
と考えていました。
そして、その「巧妙な生き方(人間性の秘密)」の一つとして
【論理的思考が人を追い詰めるー】
に辿り着いた次第です。
なぜなら「論理は、2つ以上進めて行くと眉唾(まゆつば)になる」からです。
(例:風が吹けば桶屋が儲かるー?)
・当たり前の事が
・考え過ぎて【バカになれず】
・出来なくなる【ちゃんとやれない】
※斯(か)くあっては為らない。
最後に、3つの石碑に刻まれた言霊は
「心にこそ悟りの境地がある」
との教えですが、それを
「寛大な気持ちで相手を思い遣る生き方」
※相手をコントロールしようとせずに、自分をコントロールする。
と解釈し、それこそがエスカレーションする争いから不安を取り除き、人類の平和をもたらす「人間性の秘密・掟」であると考えています。
古民家ギャラリー懐古庵
0コメント