史跡「御殿」の証し(その1)

「御殿」の証しは、今現在、何処にも存在してはいません。

1 はじめに

 古民家ギャラリー懐古庵では、富士市今泉の旧瀬古地区に存在した徳川家康公及び駿河大納言(徳川忠長公)の「御殿」の証し(石柱1本成りとも)が、何処にも見当らないという困難な課題に向き合っています。

 そこで、この重要な歴史的場所が、400年の間 蔑ろになっている問題について、これから何回かに渡り記事にしたいと考えています。


2 「お知らせ欄」の記事より

 古民家ギャラリー懐古庵では、ホームページの最初に「お知らせ欄」がありますが、そこで「御殿」に関するイベント情報などを掲載しました。

 日々「お知らせ欄」は、更新すると以前の記事が消去される為、その「御殿」の記事をブログに移して残そうと思います。

 その内容は、次のとおりです。

(1)史蹟「御殿」について

 懐古庵では、7月に富士市今泉にある地元「御殿町」の特集を組んで資料の展示会を行いました。御殿町に昔「御殿」が存在したと云う文化的価値については、識者とも連絡を取りながら、ここ懐古庵からも発信し お役に立てられたらと考えています。

「御殿町」と云う地名の由来は、源頼朝が富士川合戦や富士の鷹狩りの時代に建てたとされる御殿(どの様なものかは不明)と、徳川家康が大御所の時代に鷹狩りなどの往来で建てたとされる御殿、更にそれを引継いだ3代将軍徳川家光の弟 駿河大納言(徳川忠長)の茶屋御殿に関係します。

 家康が建てた御殿は、戦国時代に衰退し今は無き「善得寺(善得寺城)」に密接な関係があります。善得寺が再建出来なかった事情と家康が御殿を残した事情が重なり複雑です。

 善得寺を知らずして「家康の御殿」を語ることが出来ない為、善得寺の歴史については判り易く纏めて有ります。興味の有る方は、何時(いつ)でもご連絡ください。

 御殿が存在した歴史的事実については、様々な資料を基にして大筋 文字起こし(資料化)する事が出来ました。

 南北朝から戦国時代まで富士市には禅宗の大寺院「善得寺」が存在し、「善得寺城」を兼ねた今川氏の拠点として、今川氏の軍師「太原雪斎」が住職として居ました。

 戦国時代の富士市は、今川・武田・北條が何度も争った要衝地であり、複雑なドラマが展開しました。武田が滅亡し織田・徳川の時代になる頃、武田24将の一人「穴山梅雪」の生き様がキーワードになると思います。御殿の歴史はドラマチックで面白いです。

是非、ご協力頂けたら幸いです。


3 歴史に残る「御殿」への関心

 最近、他の町内会や郷土史研究会の方、富士市の観光に関わる方々から、自治区「御殿町」の由来、歴史を聞かれることが多くなりました。

 外部の方々からすれば、「御殿」の町名が魅力的なようです。

 古来より高台にあり、四方を見渡せる土地に、縄文時代から人が住み、鎌倉時代、江戸時代の歴史に関わってきた土地について知ることは、この土地に住んでいる私達にとって誇りでもあり、とても有意義なことだと思います。

また、後世の人達に残すべき遺産でもあると思います。

 御守殿稲荷神社に関する看板は、町内で検討した上で管理者の三日市富士六所浅間神社の神主さんに校正して頂き、令和5年10月、設置する事ができました。

その後、参拝者の数も次第に増加しています。

 朝、時々神社に参拝し、高台から吉原の町並みを見渡すと、往古の昔、源氏と平氏の歴史舞台となった「富士川合戦」で、この地に源氏の大群が陣形を敷き(或いは本陣だったかも知れない)、天下分け目の睨み合いが行われたことに思いを馳せる程の絶景です。

 また、この地に徳川家康公や駿河大納言(徳川忠長公)の宿場御殿が存在した由来などが史料には残っていますが、「御殿」の存在については、すっかり表舞台から埋もれてしまっている気がします。

 このまま放置して時が過ぎれば、その事実自体が風化し、歴史から消滅してしまう可能性も否めません。

 外部の方々からも関心が有りますし、何より御守殿稲荷神社の存在そのものが、御殿が此の地に存在した「生き証人」として、町内の氏神様として長年崇敬されています。

 せめて「この周辺、伝承 御殿跡」という小さな石柱1本だけでも御殿の証しとして後世に遺しておく義務があると感じているところです。

 何せ、江戸時代260年間、明治時代45年間、大正時代15年間、昭和63年間、平成31年間、そして令和7年までの約400年もの間、蔑(ないがし)ろにされてきた課題でもあります。

 私は自治会の役員として、この長年の課題に何とか明るい道筋を付けたいと考えています。


4 伝承でしか残せない哀しさ

 御殿の存在は、地元に住んでいると日々、当たり前の生活に溶け込んでいます。

 成るが故に、その当たり前が「当たり前ではない事に気付かないこと」も多いものです。

 400年もの間、御殿を示す証しすら存在しない事が、気付かずに疎かにされてきたのです。

 とは言え、御殿の存在を示す証(あか)しを残すとなると、町内で勝手に石碑1本建てれば良い訳ではありません。

 今泉地域、ないしは富士市全体の文化財として後世に伝承して行くことだからです。

 400年もの間 放置されてしまえば、

〇そこに御殿が有ったというのは証明できるの?

だとか、

〇何処にその痕跡があるの?

だとか、まして市の関係者からも

〇文献に残されていて御殿が有った事実は間違いないが、それが何処なのか学術的には証明が進んでおらず、伝承の域でしかないので市で看板を設置するのは難しい。地元で設置するのであれば協力する。

などと回答され、中々地元だけでは前に進まない状況です。

 御殿地区に昔、御殿が有ったからこそ明治以降だとは思いますが、住居表示が「今泉御殿」になった訳で、それを今泉地域や市町村が承知して居ながらも、今更、何の証(あか)しすら残されて来なかったのは、もはや残念を通り越しています。


5 おわりに

今回は、ここまでのご報告とさせて頂きます。

 どの様に進めたら宜しいかは、現在、地域の有識者と連絡調整しながら進行中です。

 何故(なにゆえ)に400年もの間、その痕跡を示す証しが存在しないのか?

「伝承でしかない」訳ではないのにー

 町内には、文献上の史実と符合する痕跡は幾つも存在しています。

 その上、多くの伝承さえも拾い集めて文字化に努めています。

 古民家ギャラリー懐古庵では、御殿に関する史料を纏(まと)めてありますので、興味のある方はご連絡下さい。

        

        古民家ギャラリー懐古庵























































 

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