北側庭の配置換えと名句碑

日当たりの良い、明るい庭になりました。

1 はじめに

 北側の庭は、日当たりが悪く、暗くて陰気な感じであったので配置換えをしました。

 庭に置かれた石碑は、今までブログで全て紹介済みであり、古来日本の高僧が残した名言の数々及び「武士道」に関する教えなどです。

 そして、外側に置かれていたガーデンテーブルを庭側に移動しました。


2 変更前の状況

 庭の入口付近には、昔からの水道場があります。

 右側の蛇口が昔の簡易水道で、今では使われていません。

 左側の蛇口が市の水道で、今でも使われています。

 普段あまり使っていないので、落ち葉等が入らないように水槽に蓋をしています。

水道場は、そのまま変り有りません。

 以前、北側の庭には石碑などが置かれているだけで、有効活用されていませんでした。

 その上、北東角には3メートル位のアオキの木が生い茂り、日差しが遮られ暗い感じでした。 

 更に、名句碑が引き立たず、かえって陰気臭く感じてしまうので、今回、改善する事にしました。


3 改善後の庭

中央の立木は、クロモジの木です。

 クロモジの横のサザンカを伐採し、ガーデンテーブルとイスを配置しました。

 北東角のアオキの木を低く剪定したので、日差しが入り明るくなりました。

 そして、ガーデンテーブルで寛(くつろ)げる憩いの庭になりました。

 サザンカの横に有った木食上人と一休禅師の名句碑は、北東角に移動して「観音経の石碑」とまとめて配置しました。


4 3つの名句碑(言霊)

 この3つ名句碑は、仏教的な生き方を鋭く説いた「至高の言霊」です。

 今回のブログでは、この3つの名句碑の解釈を全く違う視点から「気づき」としてお伝えしたいと思います。


(1)論理的思考が人を追い詰める

 人は、ついつい良かれと思って何事も「論理」で片付けようとします。

しかし、そこには「落とし穴」があります。

 四六時中、効率を考えて頭脳を休めず、頭が論理的思考に偏ってはいませんか?

 そして、自分の論理だけが正論だと勘違いしてはいませんか?

・~べきである。

・誰々と合わない、好きでない。

・何故?、どうして? 

            等々

つまり、知らぬ間に論理(正論)で人を追い詰めようとします。

 そして、あまり欲望に拘(こだわ)り行き過ぎれば、論理で自分を見失う事もあり得ます。

 行き過ぎたロジカル(論理的・正論)は「ロジハラ」になります。

※「ロジハラ」とは、ロジカルハラスメントの略で、論理や正論で相手を追い詰める行為を云います。


「何でも間違いを許せない気持ち」への拘りが、心のゆとり・精神の余裕・遊び心と云った寛大さを見失ってしまいます。

 四六時中、論理に拘(こだわ)っていると「落とし穴」に気付かない場合があります。

 例えば、

〇余分な事を言って、相手を傷つけてしまう事がある。

〇相手の気持ちにならず、嫌な事を尋ねたり話題にしたりして、無意識のうちにロジカルハラスメントをしてしまう事がある。

〇無意識に自分の立場で、最初から相手を見下している事がある。

〇直感で、相手を好き嫌いに分けて態度を変えたりする。

〇直ぐに批判的思考に持って行き、相手のメンツを潰したりする。

〇気に入らない事があると、道徳を振りかざして攻撃したりする。

              等々

 ロジハラには様々な「落とし穴」があります。

 お互い同士が口論になった時、論理的に躍起になって相手の言い分を聞き入れないことも有ります。

 正論で相手を追い詰めても、お互いの幸せにはなりません。


(2)心のゆとり、精神の余裕、遊び心の大切さ

 論理(正論)が全てだ とのロジカル思考は、自分自信にも向かってしまいます。

 余分なことを考え過ぎて、

・挨拶が出来ない、人を見て挨拶する。

・他人と自分を比較してしまう。

・他人の視線が気になる、引きこもる。

・固定観念や思い込みで論理が出来上がってしまう。

・気に入らぬ人の花にさえ、綺麗とは思わない。

              等々

 その結果、自分さえも見失ってしまい、人間関係が維持出来なくなってしまいます。

 それも又、自分自身に対する「ロジハラ」ではないでしょうか?

 

※心にゆとり(精神的余裕)が無いと、相手への寛大さ(思いやり)を失ってしまいます。

 私は、論理(正論)よりも「思いやり・優しさ」の方が大切だと考えています。

 

(3)最近あった出来事より

 最近、ホームセンターのレジで間隔を空けて並んでいたところ、私の前にカートを引いた高齢女性が割り込んで来ました。

 私は「あれっ?」と思いましたが、別に悪意も抱かず「譲ってあげよう」と思いそのまま並んでいました。

 すると、その高齢女性が、ウッカリ割り込んだのに気付いたのか、わざわざ私の後ろに下がって並び出しました。

 何となく私の顔色を覗って申し訳なさそうにしているので、私が

「良いですよ、前に並んで下さい。」

と明るく言うと、今度は安心したのか、ニコニコしながら

「こちらこそ、気付かずに済みませんでした。」

と答えてきました。

 そんなに時、心にゆとり(精神的余裕)が無ければ、苛立ち(悪意)が沸き起こり「論理的思考」になって言い返したかも知れません。

 当然、正論を持ち出して道徳を振りかざせば、高齢女性も怯えてしまうでしょう。

 心のゆとり(精神的余裕)は、相手に対して寛大になります

 つまり、感情的な論理(正論)だけが全てではないのです。

 そう言う意味では、日頃の精神的鍛錬とて必要なのかも知れません。


5 おわりに

 「ロジハラ」は、あらゆるトラブルの原因になります。

 過ちに対する「元凶」とまで言わずとも、過ちが誘発される「方法」と言っても過言ではありません。

 人生が上手く行かないのは、ロジカル思考に原因がある場合が多くあります。

 そうした過ちを犯さない為に、余分な事(論理・正論)を考えず、拘らず、「ABC理論」が大切だと考えます。

 ABC理論については、以前にブログで紹介しています。

 ・A「当たり前の事を」

 ・B「バカになって」

 ・C「ちゃんとやる」

 この生き方は、単純ですが凄く高尚な理論だと崇敬しています。

 苛立ち(悪意)の感情を抱きつつ、いくら論理(正論)を並べても相手の心には響きません。

 正論で相手を追い詰めても、お互いの幸せには成らないのです。

 

※最後に、3つの石碑の言霊(ことだま)は「心にこそ悟りの境地がある」との教えです。

 それはつまり、心にゆとりを持って相手を敬う「思いやりの生き方」に同じ、と私は考えています。

             懐古庵主

   

   





 











 








 











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