「平和で幸福な社会」の考察

トルストイの石碑「戦争と平和」より 

                  (石碑紹介の完結)

 淳朴と善良と正義のないところに
 偉大はない。

      (「戦争と平和」より)

        トルストイ

 

トルストイ

 19世紀、ロシア文学を代表する文豪


1 はじめに

 トルストイは「戦争と平和」・「アンナカレーニナ」等の小説で、真理を突いた名言を数多く残しています。

 今回紹介する石碑の名言は、岩波文庫「世界名言集」から引用したものです。

 SNSの記事を見て、トルストイの「戦争と平和」から次の名言も目に留まりました。

 

 誰もが世界を変えたいと思うが、

 誰も自分自身を変えようとは思わない。


 それらの名言は、どれも真理を突いた鋭い指摘ばかりです。

 今回の記事では、【戦争と平和】というテーマを題材にして

平和を願い争いの無い生き方について

考えてみたいと思います。

 また、今まで庭の石碑を紹介してきましたが、概ねこれで終了となります。

 

2 心の礼儀・心の平和

 人間の生命の大切さ「生きる喜び」、そして、自分が自分の人生の主人公であるのを忘れてはならない。

古来、聖人の教えに「心の平和」があります。

 確かに人間にとっての幸せは、欲求の達成に他ならないが、

 ・心の礼儀 (ゲーテ)

 ・心の平和 (アインシュタイン)

が欠けてしまえば、それらは全て重荷に過ぎなくなってしまう

 

※古民家ギャラリー懐古庵では、次の石碑を庭の中央に配置しています。 

  神を雲のかなたに求めるなかれ

  神は汝の中にあり。

           フィヒテ    


 私は、心の中に三つ、気を付けるものがあると考えています。

 フォーカシング・イリュージョンと云う「罠」

 パラドックスと云う「矛盾・誤謬」

 向上心と云う「曲者」

 その注意すべき3つが、「心の平和」を乱す元凶だ と考えています。


3 寸鉄の言(ゲーテの格言)

(1)思慮を欠いた事をすれば、終始逃げ道を探す事になる

 ・過ちを認めない

 ・言い訳や言い逃れをする

 ・開き直る


(2)法の力は強いが、必然の力は更に強い

 ①「正の学習」か「負の学習」か?

 信号無視をしても事故には遭わない。

             (負の学習)

 しかし、事故に遭えば1トンの鉄の塊が人の体を破壊する。(正の学習)

 ②嘘を付かない、卑怯な事はしない。

 その二つは法律規制にないが、それさえ護れば六法全書が要らなくなる(必然)。

「高い所から飛び降りてはいけない」とも法律には書かれていない(必然)。


4 論理思考(ロジック)には限界がある。

(1)正義とは

  道理に叶って正しいことを云う。

 正義には、自由という自律的行動

   ・自分自身への尊厳

   ・理性的能力の尊敬

が伴い、それを傷つけ滅ぼす「売春」や「自殺」を否定する。


(2)論理的思考が人を追い詰める

 人は、ついつい良かれと思い何事も「論理」で片付けようとする。

しかし、そこには「落とし穴」がある。

 行き過ぎたロジカル(論理的・正論)は「ロジハラ」となる。

「ロジハラ」とはロジカルハラスメントの略で、論理や正論で相手を追い詰める行為の事。

 四六時中、論理に拘(こだわ)っていると「落とし穴」に気付かない場合がある。

 例えば、

〇余分な事を言って、相手を傷つけてしまう事がある。

〇相手の気持ちにならず、嫌な事を尋ねたり話題にしたりして、無意識のうちにロジカルハラスメントをしてしまう事がある。

〇無意識に自分の立場で、最初から相手を見下している事がある。

〇直感で、相手を好き嫌いに分けて態度を変えたりする。

〇直ぐに批判的思考に持って行き、相手のメンツを潰したりする。

〇気に入らない事があると、道徳を振りかざして攻撃したりする。

              等々

ロジハラには様々な「落とし穴」がある。

 お互い同士が口論になった時、論理的に躍起になって相手の言い分を聞き入れないことも有ったりする。

 正論で相手を追い詰めても、お互いの幸せにはならない。


(3)心のゆとり、精神の余裕、遊び心が大切

 論理(正論)が全てだ とのロジカル思考は、自分自身にも向かってしまいます。

 余分なことを考え過ぎて、

・挨拶が出来ない、人を見て挨拶する。

・他人と自分を比較してしまう。

・他人の視線が気になる、引きこもる。

・固定観念や思い込みで論理が出来上がってしまう。

・気に入らぬ人の花にさえ綺麗とは思えない。

              等々

 その結果、自分さえも見失ってしまい、人間関係が維持出来なくなってしまいます。

 それも又、自分自身に対する「ロジハラ」思考と言える。

 

 つまり、心にゆとり(精神的余裕)が無ければ、人に対する「寛大さ」や「思いやり」を失ってしまい、相手の理不尽な行動に対して苛立ち(悪意)が沸き起こり「論理的思考」になって言い返したりする。

 その上、正論を持ち出して道徳を振りかざしたりすれば、相手は怯えてしまいます。

 「道徳過ぎるも不道徳」(道徳の暴力)

不道徳な人ほど道徳を振りかざすもの。

         

 また、逆に最初から開き直って、威嚇や嫌がらせをする場合も有ります。

 

論理的思考には限界があるのです。

そして、「ロジハラ」が、あらゆるトラブルの原因になります。

 過ちに対する「元凶」とまで言わずとも、過ちが誘発される「方法」と言っても過言ではありません。

 人生が上手く行かない時は、ロジカル思考に原因がある場合が良くあります。

 

(4)情念の大切さと精神的鍛錬の重要性

 心のゆとり(精神的余裕)は、相手に対して寛大になります。

 論理(正論)よりも「思いやり・優しさ」等の情念の方が大事です

 つまり、感情的な論理(正論)だけが全てではないのです。

 そう言う意味で、日頃の精神的鍛錬とて必要になります。

 それが、余分な事(論理・正論)を考えず、こだわらず、バカになる「ABC理論」です。


 ABC理論については、以前にブログで紹介しています

 ・A「当たり前の事を」

 ・B「バカになって」

 ・C「ちゃんとやる」

 この生き方は、単純ですが凄く高尚な理論だと思っています。

 

 苛立ちや悪意の感情を抱きつつ、いくら論理(正論)を並べても相手の心には響きません。

 正論で相手を追い詰めても、お互いの幸せには成らないのです。

 

(5)藤原正彦著「国家の品格」より

 今から14年前、私が50代前半の時に、この本が大ブームになりました。

〇教育に培われた情緒(懐かしさ・ものの哀れ 等々)や形(武士道精神)の大切さ

〇「論理」・「合理性」頼みでは社会の荒廃を止める改革は出来ない。

〇合理精神には限界があり、「論理」を徹底しても人間社会の問題は解決できない。

〇論理には出発点が必要であり、それは「情緒力」で選ばれる。

〇最悪なのは、「情緒」がなくて論理的な人。出発点を間違えると結論が誤りになる。

〇論理を進めると「風が吹けば桶屋が儲かる」如く眉唾(まゆつば)になり、論理は長くなり得ない。

〇「情緒と形」の大切さには6つ理由がある。

〇武士道の最高の美徳は「惻隠の情」。

             等々

共感する理念が多く、私はその後の生き方に多大な影響を受けました。


(6)パラドックスに対する論理思考(合理精神)の限界 

 核戦争への威嚇・脅迫は、「ナイル川のワニ」のパラドクスそのものです。

 今、世界では、解けない命題(議題)がテーブルの上に載っています。

(例)

 従わなければ核攻撃する。

 核攻撃されれば、更に強い核を使い滅ぼす。


 根本的な誤りは、「力こそ正義」との考え方です。

 正義とは「道理に叶って正しいこと」を云い、正義には、自由という自律的行動

   自分自身への尊厳

   理性的能力の尊敬

が存在します。

 力に服従し、正義が滅びることは、「自殺」と同じ意味を持つことになります。

 この様に論理では解決できない命題に対して著書「国家の品格」では、情緒的思考の大切さを説いています。

 その主な事例が、武士道精神の「惻隠の情」です。

 それは、最高の美徳(慈悲の心)

  ・敗者への共感

  ・劣者への同情

  ・弱者への愛情

であり、武士道精神では「卑怯を憎む」という「形」こそを尊重します。

それが「5つの禁じ手」です。


例えば、

〇弱い者いじめの、見て見ぬふりは卑怯だ。

〇弱い者いじめを見たら、身を挺して助けろ。

〇弱い者を救うのに、力を用いても構わない。

但し、「5つの禁じ手」は絶対に守れ!

理由は理屈でなく、ただ「卑怯だから」(形)


「5つの禁じ手」とは、

⑴大きい者が小さい者をぶん殴っちゃいかん。

⑵大勢で1人をやっつけちゃいかん。

⑶男が女をぶん殴っちゃいかん。

⑷武器を手にしてはいかん。

⑸相手が泣いたり謝ったりしたら、直ぐに止めなくちゃいかん。


つまり、法律規制が全てではない。

 論理ばかりに頼っていては、戦争は無くならない。

論理は自分を正当化する道具にすぎない

 数学にも「不完全性定理」が存在する様に、どんなに立派な公理にも「良いか悪いか判断できない命題」が存在する。

 「人殺しは悪いことか?」の命題すらも、論理では解決できない。

 「卑怯を憎む心」さえ共有すれば、「人が見ていなければ万引きできる」などの法律違反が良いか悪いかぐらいの事は判る。

 その場合、「法律違反はいけないから」という論理が理由ではない。

当然、人間としての情念(形)

 ・親を泣かせる

 ・先祖の顔に泥を塗る

 ・お天道様が見ている

という思い(精神)からである。

 つまり、法律(システム)よりも必然(正しい情念)が大切である


(7)パラドックスとは

 幾つかの「正しそうな前提」があり、「妥当に思える推論」をした時、

・どれか前提に正しくないものが有ったり

・推論(予測)が誤っていた場合

全く受け入れがたい結論に達してしまう事。

 つまり、いくら正しいと思う前提の議論を重ねても、何処かに間違った前提議論が加わったり、妥当に思える推論・予測(議論)をしても、実はその予測が誤っていれば、「とんでもない結果」になってしまう(逆理=矛盾)

 お互いの主張が噛み合わなず、全ての人が恐怖に怯えて暮らす等、「とんでもない結果」がテーブル上の議論にあるのは、何処かにパラドックス(背理・逆理)が含まれているからであると考えます。


5 おわりに

 トルストイの石碑は、南側の庭にあります。

 懐古庵では最近、仏像の数が増え、置き場所もない程です。

 妻から冗談で「いっそう【七福神の館】にしたらどうか?」と云われます。

 七福神は【七難即滅・七福即生】、つまり「あらゆる災難を避け、幸福な生活が送れる安穏な世界」を希求するものです。

 自然に仏像が古民家ギャラリー懐古庵に集まって来るのは、何かの縁だと考えています。

 今回、トルストイの名言を紹介しましたが、これで石碑紹介は一先ず終了といたします。

 「温故知新」として、有用な教えを色々紹介して来ましたが、最近では、無理をすれば血圧の上昇を招く様に成り、今後は体調に合わせて簡潔に進めて行こうと思います。


 世界の平和が、人類全ての生活に共有されます様に、当庵一同 祈念して石碑紹介の結びといたします。

             懐古庵主


(追記)

 貝原益軒の教え「大和俗訓」の中に、

   「不仁を卑しむべき」

と云う教えがあります。

 不仁とは、「人を哀れむ心が薄いこと」を云います。

 人に高ぶって誠の少ないのは、卑しむべきである。

 人を謗(そし)ったり、事実を曲げて相手を悪者にするのは、「不仁」の極めである。

 心を正しくしようと思ったら、まず、その心を誠にすることだ と教えています。

【名言】

   仁は人の道なり。

         (孟子)

己を愛する心を持って人を愛する事、 の意。


(補足)

 当庵に関心がある方は、次のワードも検索してみて下さい。

   ・ゲーテ思想

   ・寸鉄の言

   ・名句碑

   ・人生の罠

   ・フォーカシング・イリュージョン

   ・ABC理論

   ・惻隠の情

   ・トイレの手洗器

   ・脱脂粉乳容器

   ・ローマ戦車(画像)

            等々

当庵のブログが紹介されています。

是非、一読して頂けたら幸いに存じます。  

   


※参考資料

  新潮新書発行、藤原正彦著

    「国家の品格」








   


 





































 

 















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